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税理士 後藤泰斗

Author:税理士 後藤泰斗
名古屋の税理士です。気軽に相談できる親しみ易い税理士を心掛けています。どうぞよろしく!
事務所ホームページ    http://後藤会計事務所.com
経理代行専門ホームページ http://www.keiri-nagoya.com



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山本昌投手に学ぶ

中日ドラゴンズの山本昌投手が本年50歳を迎えるそうで
ある。打者においても50歳まで行った選手は稀有なことで
あるのに、投手においてはなおさらである。
おそらく、史上例がないことではないだろうか?
ほぼ私と同世代の選手、この快挙に敬意を表したい。
ここまで選手生活を続けてこられたのには本人の努力も
もちろん、「怪我しない、病気しない、気にしない」という心
身共に健康であった点、野球に関しての技術的な要素も
多分にあるのであろう。
私は野球に関して全く興味がない。
中継もほとんど見たことがないのであるが、こと山本投手
に関しては、たまたま見た野球中継が印象に残っている。
昭和63年の秋、アメリカでの野球留学を終えた山本は
「スクリューボール」なるものを引っ提げて現れた。
当時、私は大学生だったと記憶している。
大柄で不恰好な投げ方をする投手、どちらかといえば不
器用な投手というのが当初の印象であった。
しかし、左利きであることから「実際には器用人では?」とも
一方では感じていた。
しかし、それでもよく持って5年、20代後半にはいずれ使
われなくなると見ていた。球速も140キロに届くか届かない
か。現在では150キロ、160キロ出す投手が存在する。
したがって、専門家の間でも評価する意見と評価しない意
見に分かれていた。むしろ評価しない意見の方が大勢
だったと記憶している。
当時の中日はエース小松を軸とした投手陣であった。
山本がデビューした前年には近藤真一が無得点無安打試
合を記録して颯爽と投手デビューを飾っていた。
山本よりもむしろ将来のエースは近藤であった。
さらに翌年には今中投手が入団、今中投手の身体が弓な
りになって投げる投球技法には素人の私が見ても球界№1
を思わせるものがあった。
同時に打者は努力すればだれでも大成できるかもしれない
が、投手はむしろ素材、生まれ持った才能こそがものを言う
世界ではなかろうか、との感を強くした。
そう感じさせたのは今中だ。
そうした実力ある投手陣の中にあって山本はどちらかとい
うと2線級。90年代には今中、山本の二人のサウスポーを
称して中日は投手王国などと騒がれたが、素人の私が見
てもなぜ山本がエース級なのか全く理解できなかった。
そうした投手が40歳を超えて無得点無安打試合を記録す
る。さらには200勝まで挙げることとなる。
今やだれがどう評価しようと球史、むしろスポーツ史に名
を残す大投手である。
思うに、山本自身入団当初はここまでやれるとは全く思っ
ていなかったであろうし、山本自身現在でも一流選手と
思っていないのではなかろうか。
20代前半ごろの山本は「この歳になってやっとプロで飯食っ
ていける目途がついた。」「やっとプロとして一人前になった。」
などと謙虚に話していた姿が印象的であった。
 「自分の仕事に対して謙虚に向き合う」
社会人として一番重要なことではないだろうか?
山本が50歳までできた最大の原因はそこにあるのではない
だろうか?野球選手と野球球団は言うまでもなく民法上、
請負契約である。雇用契約などでは決してない。
したがって、成果が出なければただちに契約打ち切りである。
このため、将来に不安を感じ少しでも多く報酬を得ようと、
年俸での争いも毎年のようにおきることになる。
しかし、こと山本に関して、そうした争いは聞いたことがない。
お世話になった会社への恩義、そうした姿勢も球団側は評価
したのであろう。50歳まで現役で続けられるのは決して山本
一人でできたのではなく、球団側の努力と協力があって成し
遂げられることだからである。
どんな職業であれ、どんな仕事であれ、謙虚に仕事に向き
合うのは大変難しいことだと思う。
よくあるのは「これは女の子の仕事だ。」「よくわかっている
から聞かなくても大丈夫。」こうした人間は謙虚さの前に仕事
そのものを軽視してはいないだろうか。
その人がどれだけ実績があろうと、その仕事の経験数が長
かろうと、その会社に入った以上は全くの初心者なのである。
上記の考え方は明らかに過信であり慢心を生む。
近年におけるメーカーに代表されるさまざまな不祥事、
大惨事はそうした一点の慢心から生じるのである。
山本投手から学ぶべき点は非常に多いと思う。

後藤会計事務所
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マイクロソフトの業務提携戦略

ビル・ゲイツ氏がまだ十代の少年の頃の話である。ゲイツ
少年はあるコンピュータの雑誌を見て衝撃を受ける。
そこにはコンピュータの基幹となるマイクロチップの写真
が大きく載っていた。
後にマイクロソフト社を一緒に立ち上げるポール・アレン氏
とともに「とても大学に通ってのんびり学んでいる状況では
ない。近い将来、間違いなくこのチップを使って、だれでも
手軽に、安価に利用できるコンピュータの時代、情報化社
会がやってくる。俺たちはこの先駆者になりたい。」と、大学
を中退してまでしてこのコンピュータソフトの開発にのめり
こんでいく。
当時、カリフォルニア大学に留学中であったソフトバンク
の孫正義氏も同時期、同じようにこのコンピュータの雑誌
を見て涙を流すほど感動したという。
「あのバカでかいコンピュータの頭脳がここまで小さくなる
とは、人類はなんというすごいことをしたのであろうか。」と。
 「英雄は英雄を知る」というが後に情報化産業に携わる二
人の巨人が同時期、同じ雑誌で感動していたのは実に興
味深い。
この当時、開発や技術力に優れた人間は他にもたくさんい
たはずである。おそらくこの雑誌を見たと思われる全米何万
人、何十万の人々は様々な思いをもってこの雑誌を手に取
ったにちがいない。
しかし、この写真から「いかにビジネスにするか。」「いかに
ビジネスの仕組みを作って売りさばくか。」という思いを持って
行動に移したという点においてこの二人は抜きんでていたの
であろう。つまり単なる技術屋でなくビジネスにする能力があ
ったということである。
重要なことはコンピュータソフトの開発によって、継続的にそ
こから利益を生み出す仕組みを考えぬいた点にある。
マイクロソフトの場合、90年代初頭にかけてロータス、一太郎
のジャストシステム、さらにはアップルなど他のソフトメーカー
とほぼ拮抗した勝負をしていた。つまり、パソコンソフトの販売
を主体としていたときはそれほど抜きん出た存在ではなかっ
たのである。ところがウインドウズ95に代表されるようにソフ
トをパソコンに標準装備させ、パソコンが売れれば自然とマ
イクロソフトの収益源になっていく仕組みを作り上げる。
広告宣伝の仕方もうまかったが、それ以上にパソコン本体を
購入したのちソフトも同時に購入しなければ全く動かなかっ
た、「ソフトがなければただの箱、ハードがなければただの
紙」揶揄された言葉を打ち破った点にある。
こうした当時の常識を破って、パソコンメーカーと提携し中に
組み込み、性別に関係なく、年齢に関係なく、だれでも簡単
に作動できるような仕組みを作り上げた。
川上から川下に至るまでの業務提携
我々も見習うべき点は非常に大きいと思う。

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経理代行名古屋

田崎真也氏の顧客満足

もう20年近くも前の話である。「日経ビジネス」だったか「東
洋経済」だったか、確か経済系の雑誌だったと記憶してい
るが、ソムリエの田崎真也氏が次のように語ったことが実
に印象的であった。
田崎氏といえば世界ソムリエコンクールに日本人で初めて
優勝し、その後は日本にソムリエという職業を認識させ、
ワインブームをもたらした人でもある。
 「例えば、レストランで食事をしたとする。お客様がお帰り
の際『ご馳走様。おいしい料理でした。』というお言葉を頂
戴したとき、ソムリエとして素直に喜ぶことはできない。
なぜなら、この言葉は調理師に対して向けられているので
あって、決してソムリエとしての私に向けられているのでは
ないからだ。
では、『ありがとう。おいしいワインを頂戴しました。』と言わ
れた場合はどうだろうか?この言葉もソムリエとして喜ぶこ
とはできない。なぜなら、この言葉はワインの生産者に対し
て向けられているからだ。・・・・ではどういった言葉を頂戴
したときソムリエとして素直に喜ぶべき言葉になるのか?
『ありがとう。今日は楽しい時間を過ごさせていただきまし
た。』この言葉を頂戴したときソムリエとして初めて仕事を
したといえる。」
「例えば、アベックの方々が私共のレストランに来店された
とする。女性客がこの料理の素材は何か?ワインはどうい
う種類のものなのか?と隣にいる男性客にさりげなく聞い
たとする。男性客もよくわからない。その場合に男性客は
我々ソムリエに聞くことは容易に察することが出来る。
しかし、私共は決して女性客に直接答えることは許されな
い。あくまでも主人公は男女のアベックであり、質問に対し
ては男性客に答えて、男性客から女性客に説明できるよ
うにして差し上げるのがソムリエとしてのマナーである。
ソムリエとしての顧客満足のサービスとはこういうものだ
と私は思っている」と。
20年近くも前の雑誌なので、現在その雑誌は私の手元に
はない。
しかし、大体はそんな趣旨の記事だったと記憶している。
 この記事を読んだとき、さすがに世界一になる人間は
人間としても一流だと感じたものであった。
「顧客満足」。
最近では「おもてなし」と表現される場合が多い。
こうした無形のサービスにお金を使うという慣習は日本
では「心付け」という形で少しばかり残っているものの、
外国と比してあまり発展してはこなかった。
海外ではチップに代表されるように無形のサービスに
報酬を支払うという行為が自然的な慣行としてある。
 日本において長い間、護送船団方式で馴らされてきた
弊害なのかもしれない。
最上のサービスをされて当然という認識が我々にはある。
こうした行為に対して正当に報酬をいただく。報酬を支払
う。それぞれの職業領域においての創意工夫が今後は
重要になってくると思う。

後藤会計事務所
経理代行名古屋

自らの命数から逆算して戦に臨んだ織田信長

戦国時代、ほとんどの戦国大名は京都に上って天下へ号
令する夢を持っていたと思われているようであるが、すべ
ての大名がそうした野心を持っていたわけではない。
上杉謙信は室町幕府の再興を目指し、領土への野心を全
く持たなかったし、毛利元就は自らの相続の際、三人の息
子に対して「間違っても天下を望むな。」と言い含めたぐら
いである。
天下への号令を目指そうとした大名に代表的な例として今
川義元と武田信玄がいるが、年齢的に考えても本気で天
下統一を目指そうとしたのか甚だ疑問である。法制、税制
の統一という緩やかな形での連合体を目指した形での統
一だったと考える。
本気で天下の一統をめざしたのは思うに当時の戦国大名
では信長以外にいないのではなかろうか。
「人間五十年」敦盛(幸若舞)を好んで舞った信長。
本能寺で倒れたときは49歳であったが自分の人生がまさ
か50年程度で終わるとは思ってもいなかったであろう。
70、80歳までも生きるとは本気で思わなかったとしても、
還暦までは生きるつもりでいたのではなかろうか。
信長が本能寺で倒れたとき、その後、織田に敵対するで
あろうと思われる大名は東北の伊達、最上、関東の北条、
上杉、四国の長曾我部、九州の大友、島津とまだこれだけ
の大名がいた。最短であったとしてもこれらを滅ぼすのに
約10年程度はかかる。
実際、信長の事業を引き継いだ秀吉はその後10年程度
で天下統一を完成させるのであるから、その年代は信長
の還暦になったときと一致する。
本能寺という不測の事態がなければ、自らの命数を考え
てそこから逆算した計画としか思えない。
見事な人生計画だ。ソフトバンクの孫正義さんが織田信
長を尊敬しているのもよくわかる気がする。
信長が登場した1570年ごろ、この日本六十余州はおよ
そ20前後の大名で分割されていた。
どれも馬の目を射抜く大名ばかりである。
これらを統一するとなると、相手との戦いというよりむしろ
自らの命数との戦いである。
つまりは、常に自らの寿命を考えて「いつまでにこの事業
を完成させる。」という一つ一つの仕事に期限を設定して
いたということである。
 同じように、ビジネスも同様で事業計画は当然必要であ
る。信長のように長期的な計画を持たなくとも、2,3年後の
中期的な計画、せめて毎年の短期事業計画ぐらいは必要
である。中には事業計画を持って行って真剣になるのは融
資を引っ張るぐらいのときで、その後、全く見向きもしない
社長がいるが、こうした考え方は極めて危険である。
どんぶり勘定で行っていって気がついたら借金が膨大に膨
れ上がっていた、なんていう事例は本当によくある。


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伊藤博文と井上馨の決断

かつて、幕末の時代、伊藤俊輔と井上聞多は長州藩の命
を受けてイギリスに留学した経験を持つ。
しかし、半年も経たぬうちにイギリスより急きょ帰国するこ
とになる。
理由は、当時長州が採っていた「攘夷」という外国人排斥
の思想を藩に対して改めさせることにあった。
言うまでもなく伊藤俊輔とは後の伊藤博文、井上聞多とは
後の井上馨のことである。
結果としてこの両名は外国の知識や技術を学ぶという当
初の目的はここでとん挫する。
司馬遼太郎氏はこの二人の行動を「世に棲む日々」の中
で次のように述べている。
「イギリスに留学したのは伊藤と井上以外にも3人の若者
がいたが、「これだけの大国を相手に競っても無駄だ。
藩の攘夷をやめさせねば。」というたったそれだけの理由
でイギリスを去る。他の3人はせっかくイギリスにまで来た
のであるから、知識、技術を習得してからでも遅くはない
のではないか、と制ししたが二人は聞かなかった。
このため二人の留学は中途半端に終わる。
しかし、中途半端に終わったおかげでこの二人はその後
の日本の歴史に参加することになる。
他の三人は単に西洋仕込みの知識人で終わった。
思えばこの二人のこのときの決断が、その後の人生の分
岐となったのである。」と。
とは言っても、その後、イギリスに残った三人も明治政府
の要職に就きそれぞれの分野において功績を残し,後進
を育てるのであるから、上記の表現はあくまで司馬氏の
私見であろう。
 私がこの書を読んだのは、二十代の頃だったと記憶し
ている。
私自身、本の内容よりも司馬氏のこうした歴史観のこの
言葉が妙に印象に残っている。
思うに、当時自分の置かれた境遇も似たようなもので、
伊藤、井上に共鳴する点があったので二十年を経た今
でも記憶として鮮明になっているのではなかろうか。
それはともかく、分岐となった時点において、この二人は
事前の準備をしていたわけではない。
計画もあったわけでもない。あったとすれば若さとこの国
を立て直したい情熱だけであった。
人が決断をするときは案外そんなものなのかもしれない。
まして二十代、三十代の若き日の決断にはそれが当然で
あると思われる。
起業するのに数年もかけてじっくりと事業計画を練った
ソフトバンクの孫正義氏のごときは例外中の例外である。
 私の関与させていただいているほとんどの起業家はそ
んなこと考えもしない。
極めて楽観的な人たちばかりである。あまり楽観過ぎて
白昼夢を観てもらってもどうかと思うが、案外そうした感
じで立ち上げた人の方が稼いでいるのである。
実務は理論ではない。
準備とか計画とかそんなことを言っていたら決断の時と
いうものは瞬時に過ぎ去っていく。
ある程度楽観主義者の方がうまくいく。
心に留めたいものである。
後藤会計事務所
経理代行名古屋





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